シカゴ便り(2)The Plan of Chicago(シカゴ都市計画)

湖岸は公共のものである。たとえ1フィート(約30センチ)たりとも私有化してはならない。

アメリカの建築家、都市プランナー、Daniel Burnham(ダニエル•バーナム 1946-1912)は共著、”The Plan of Chicago”(1909年刊行)の中で、シカゴのミシガン湖畔の開発計画についてこう提言した。これを受けて、湖岸が埋め立て拡張され、公園が造られる。100年後の今日においても47キロに及ぶ湖岸には、商業ビルは一つたりともは見当たらない。これは、他に類を見ないと言ってもいい、特筆すべきシカゴの都市開発計画の一例である。

春ともなれば、長い厳冬から解放され待ちかねたようにウォーキング、サイクリング、ジョギング、またサッカーやベースボール、テニス、そしてゴルフと、スポーツやレクレーションに興じる老若男女の姿がある。夏には、ビーチで日光浴やスイミングを楽しむ人々、また湖上では白い帆を靡かせたヨットが滑らかに進み、それは美しい一幅の絵となる。

 

 Make no little plans (壮大なプランを)

人口270万のシカゴには、595の公園、11のビーチ、そして9のハーバーがあり、City in Garden(公園都市)として高く評価されており、これは、バーナムの提唱した『すべての市民は歩ける範囲に公園がある場所に住むべきである、』という理念を骨格にしていると思われる。

1830年にはわずか100人の開拓地であったシカゴは、19世紀アメリカの産業化都市化に伴い急激に発展し、1850年3万人、1870年30万人、と増加、そして1890年には、ついに100万人を突破。

その間、1871年のThe Great Fire(シカゴの大火)により、市の三分の一を焼失するという大被害を被るも、その後めざましい復興を遂げ、1893年にはコロンブスの新大陸発見400年を記念するWorld ‘s Columbian Exposition(コロンビア万国博覧会)を開催し、大成功を収めシカゴの名を世界に轟かせた。

しかし、シカゴの街は、まだ不衛生で環境汚染、交通渋滞、と醜悪な状態であった。

これを憂慮したシカゴの経財界の有力者、資産家、慈善家の団体であるマーチャントクラブ(後にコマーシャルクラブと合併後改称)は、1906年、先のコロンビア万国博覧会の総指揮を取ったダニエル•バーナムをシティープランナーとして雇用し、資金を提供、全面的なサポートをする。

“Make no little plans.  They have no magic to stir men’s blood and probably will not themselves be realized” (壮大なプランを。小さなプランは、血を滾らせる魔力もなく、実現の可能性すらも望めないであろう。)

バーナムのスピリットを十分に表現したこのスローガンは、人々を大いに魅了し彼らの士気を鼓舞させた。バーナムプランと呼ばれるその都市計画は、ドームを持つ庁舎を中心に放射状に大通りが広がり、フランス風の公共建築と噴水を設けるというもので、パリをモデルとしたため、Paris on Prairie(アメリカ大草原のバリ)と揶揄されたが、都市計画の規範ともいうべき内容であった。

計画は6つに分けられ、

1)  湖岸の改善

湖岸は市民のものであるという理念の基にミシガン湖を埋め立て公園を作る。

2)ハイウェーシステムの構築

自動車大衆化時代の黎明期にすでに、高速道路の建設を提案。

3)鉄道駅の開発

貨物と乗86668373客の移動の効率化を図るため、運河沿いに鉄道ターミナルを開発。

バーナムの設計したUnion Stationは、彼の死後1913年に建設が開始され、1925年完成。シカゴの主要なターミナル駅として、多くの通勤客や旅行者に利用されている。

 

4)新しい公園や森林公園の設置

5)街路の系統的な配列

交通渋滞を解消し急成長する都市の美化運動を推進する為、幹線道路を拡張する。

この案により、Michigan Avenueの延長拡大、Roosevelt Road の拡張、さらにWacker Drive 、Congress Parkwayが新たに設けられた。然しながら、第一次大戦後の自動車の普及により保有数が急増したため、このバーナムの原案は大きく変更または破棄された。

6)市庁舎と文化施設の建設

CongressとHalstedに壮麗なドームを戴く巨大な市庁舎を建設。グランドパークにフィールド•ミュージアムを始め、自然博物館、美術館、図書館といった文化施設を配置する。

この2案はいずれも、採用されなかった。市庁舎については、建設場所に難色が示された。

また文化施設の方は、州最高裁判所によりグランドパークに新しい建造物の建設が却下された。

バーナムのプランは、大きすぎ、市民の住居が考慮されていないなどの批判があるけれども、混沌とした劣悪な状態のシカゴの街に近代都市としての理想と理念を提供し、都市計画を先導した功績は賛美に値する。

 

The Lucas Museum of Narrative Artの建設は是か否か

昨年春、シカゴに突然降ってわいたような話ーーあの”Star Wars”の、ジョージ•ルーカスが、何とミシガン湖岸に博物館を建設するーーシカゴ南部に位置するこの建設予定地は、ミュージアム•キャンパスと呼ばれ、フィールド博物館、科学産業博物館、水族館、天体博物館が点在する。更にChicago Bearsの本拠地ソルジャー•フィールドもその一角に勇壮な趣を添え、北米最大のコンベンションセンター、マコーミック•プレイスもその近くに位置する。

この是非を巡って、シlucusカゴは騒然。100年以上も継承されてきたダニエル•バーナム精神に抵触するという反対派。片やこれはミュージアムであるから湖岸の私有化にはあたらず、シカゴの有望な観光資源になるという推進派。両者が喧々諤々の論争を繰り広げている。反対派のNPO、Friends of Parks、は連邦裁判所に提訴、現在審議中で、次回の公判は2月26日の予定。ちなみに現シカゴ市長、ラーム•エマヌエルは、明言は避けているものの、このミュージアムに好意的であり、2月の市長選挙の争点の一つとなっている。

このミュージアムは、その内容は、なかなか魅力的で、スターウォーズ•ファンには其の開館が待たれるところですが、北京の設計事務所がデザインしたこの奇怪な建物、ちょっと周囲とマッチしていない気がしますが…

 

 

〈追記〉

ダニエル バーナム (Daniel Hudson Burnham )

1846年9月burnhamportrait4日生誕。1912年6月1日死去。

アメリカ合衆国の建築家、都市計画家。シカゴ万博総指揮者であり、ニューヨークのフラットアイアンビルディングやワシントンD.C.のユニオン駅などを設計。また、マニラ、バギオ(フィリッピン)の都市計画も手がけている。

バーナムは、ニューヨーク州ヘンダーソンに生まれ、イリノイ州シカゴで育つ。両親の信奉した新エルサレム教会(新教会)スヴェーデンボリ派の財産を共有するという社会主義的な教条は、バーナムに他者への奉仕精神を植え付けたと思われる。

ハーバード、イエール大学に不合格となった後、William  Jennyの製図士として働く。26歳の時、Carter, Drake, and Wightシカゴ事務所に移籍、のちのパートナーとなるJohn  Root(1850-1891)と出会う。二人の設立したBurnham & Root Officeは、アメリカにおいて超高層建築を手掛ける先駆けであり、彼らの設計したシカゴのMasonic Temple Buildingは、21階建、高さ92mで、当時世界屈指の高さを誇った。(これは1939年に解体され、現存せず。)二人の設計事務所は、数々の近代的な建物を設計、シカゴ派として躍進した。John Rootの早逝後、D.H. Burnham & Companyと改称する。

 

 

 

 

World’s Columbian Exposition(シカゴ万博博覧会)

1871年のシカゴ大火から見事な復活を遂げたシカゴは、1893年、コロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念してこの万博博覧会を開催。当時過去最大の規模を誇る。会場であるミシガン湖畔の南部に位置するジャクソンパークは、当時はまだ荒れ野にすぎず、ここにバーナム、ルートを始め、フレデリック•オルムステッド、ルイス•サリヴァンといった著名な建築家、景観設計家が全米から招集された。会場面積は60万坪以上、ここを3年ががりで造成。展示場のCourt of Honor地区と娯楽施設Midway地区からなり、役200の建造物が存在した。world columbian

 当初、ルートの案として、モダンで色彩豊かなものが考えられたが、彼の急逝によって、ホワイト一色の新古典主義建築へと方針は急展開した。バーナムの総指揮の下、世界的な金融パニックや厳しいタイムスケジュールなどの困難を乗り越え、予定通り開催に漕ぎ着けた。

メイン会場は、広い大通り、古典主義スタイルのファサード、緑豊かな庭園を有し、白一色の建物で統一された為、”White City”と呼ばれる。それによって、モニュメンタルで理性的なフランスのボサール様式による新古典主義建築が世に広まり、アメリカの国内の多くの建築主がこのスタイルの建物を要望した。

尚、この万国博覧会には、当時アメリカ国民の人口の半数が訪れたと言われている。美術館として使用された建物は、現在シカゴ科学産業博物館として利用されている。

<日本の参加>

The_Japanese_pavillion_Ho-o-den_01,_World's_Columbian_Exposition_1893

 

日本は、不平等条約の撤廃と諸外国との交易促進の為、周到な準備をしてこの博覧会に参加。熱心な交渉の結果、美術館の向かい側にある池の中州の森という好立地に宇治平等院鳳凰堂を模した「鳳凰堂」を建設。ダニエル バーナムは、『日本は極めて美しい建築物を提案しており、しかもシカゴ市に無償で寄贈する、』と当初日本の参加に反対していたオルムステッドに書簡を送ったと言われている。西洋様式とは異なる日本独特の様式やその伝統的な建築技法は、話題を呼び、連日見学者が絶えなかったそうである。またアメリカの建築界にも議論を呼び起こし、中でもフランク•ロイド•ライトは、日本建築の持つ特性に触発され、後の彼の設計スタイルに影響を及ぼしている。

The Great Fire (シカゴ大火)

 

1871年10月8日(日)夜、シカゴの南部で発生しChicago-fire1、10月10(火)早朝まで燃えけたこの大火事は19世紀最大の災害と言われている。

その被害は甚大なもので、2000エーカー(約800ヘクタール)を焼き尽くし、死者250人以上、17,000以上の建造物が全焼。家を失った人々は100,000人に上る。その被害総額は当時にして約2億ドルと言われている。

その原因は一説によればオリアリー夫人が飼っていた牛がランプを倒したと言われているが、それは、当時の新聞記者の捏造のようである。この大火により街は廃墟と化したが、その後目覚ましい復興を遂げ、シカゴの都市計画、新都市計画の幕開けになった。被災後、市は木造建築を禁止し、煉瓦、石造り、鉄製を推奨した。そのためシカゴは建築家たちの格好の市場となり、建築におけるシカゴ派による摩天楼設立ラッシュ現象を起こした。

 この時、唯一焼け残ったシカゴ•ウォター•タワーは、現在ギャラリーや公式観光案内所になっている。

 この大火の3ヶ月後、1872年1月、ワシントンD.C.に向かう途上にシカゴに立ち寄った岩倉具視特使一行は、その惨状を見て5千ドルという多額の寄付をしたと言われている。

 

ところで、このシカゴには、この大火事を冠した”Chicago Fire”というプロフェッショナル•サッカーチームがあります。荒廃から不死鳥のように蘇ったシカゴ市民の困難に屈しないファイト精神にあやかっているのではないでしょうか。

参考資料

Smith, Carl, The Plan of Chicago, Chicago, IL., The University of Chicago Press, 2006

http://en.wikipedia.org/wiki/Burnham_Plan_of_Chicago

wikipedia.org/wiki/シカゴ万国博覧会_(1893年)

http://www.lucasmuseum.org/