2018パリ大懇親会に寄せて 

Posted by on 10月 13, 2018 in 未分類
2018パリ大懇親会に寄せて 

Pierre-Auguste Renoir
Le Pont Neuf, Paris、1872
National Gallery of Art, Washington (DC)

 

 

序章 パリと新島襄

 

1872年、同志社大学設立の祖、新島襄はアンドーヴァー神学校在学中、岩倉具視使節団の団員として一年余アメリカ、ヨーロッパ各国の教育制度の調査や視察をおこなった。

その際、訪れたパリの街の美しさにすっかり魅了されたようです。

以下、同志社校友会パリ大懇親会のリーフレットより引用:

1872年7月16日~7月 20日(田中不二麿らと視察)「パリスニ滞在する事僅ニ四五日」、「人家の美と市街の広き事」と若き日の新島襄もパリの街に心を奪われていたようです。よほど気に入ったのか後日、ドイツから観光のために訪れたパリの街。

ここで、印象派ルノアールの一枚の絵画をご紹介します。制作年も1972年。当時のパリの雰囲気がよく伝わり、しかも人々の服装やパラソル、ハットから季節は夏と推測され、新島が訪れた時期と一致します。ポン•ヌフはパリ最古の橋(1697年竣工)としてパリ市民に愛されていますが、初夏の日差しを浴びながら散策を楽しむ男女、母娘、ステッキの紳士、橋に凭れ往来を眺める若者、花や野菜の行商人。子犬の姿もあちこちに。セーヌ河畔を犬の散歩を兼ねてそぞろ歩く人たち。デッキに鈴なりの乗客を乗せた馬車は、さしずめ観光バスといったところでしょうか? 当時29歳の若き新島が、花の都パリの活気溢れる雑踏の中を嬉々として歩く様子が想像されます。

ところで、新島は通訳として岩倉使節団(1871~1873)の理事官田中不二麿に随行していますが、教育制度視察の分隊として、1872年5月、一足先にヨーロッパへ旅立っています。

(尚、岩倉使節団のパリ入りは1872年11月中旬で60数日間、滞在。)

視察中、持病のリューマチが悪化した為、通訳を辞退し療養のため、ドイツに残り温泉治療を受けていましたが、パリ再訪はその頃ではないでしょうか?

それでは、新島が恋したパリの街が如何にして生まれたか、激変するフランスの政治事情を絡めて検証してみたいと思います。

 

パリ改造計画

パリはシテ島から始まったーーー花の都パリは、意外にも、セーヌ川の中洲のこの島を発祥の地とします。其の起源は古く、紀元前3世紀頃、パリシイ族の集落があったとされています。ここを中心にしてパリは、セーヌ川左岸から拡大発展しましたが、度重なる政治的混乱、急増する人口に対応する施設や制度の不備のため、衛生状態は悪く、シテ島中心部はスラム化し、長い間放置されていました。1832年のコレラの大流行を契機に都市の整備が緊急の課題となり、1852年ルイ・ナポレオン三世が政権を取る(第二帝政)と、翌年ジョルジュ•オスマン男爵をセーヌ県知事に任命し、パリ改造計画が着手されました。

その改造の主目的は、まず非衛生的なパリに光と風を入れることであり、その実現化に向けて、下記の項目が取り組まれた。

  • 幅員の広い大通りの設置

エトワール凱旋門から放射状に並木が配されたアヴェニューと呼ばれる広い12本のブールヴァール(大通り)の設置

  • 上水道の施設、公共施設(学校、病院)の拡充
  • 都市景観の整美

街路に面する建造物の高さを一定にし、軒高の連続するようにする。

屋根の形態や外壁の石材の指定

  • 大通りに並ぶ街灯(ガス灯)の数の増加
  • 文化施設の建設(ルーヴル宮(1546年)、オペラ座(1874年竣工))

この都市整備事業によって、衛生的で壮麗な白亜の都市パリが誕生し、近代都市のモデルとして各国の都市計画構想に影響を与えています。

 

普仏戦争とパリ•コミューン

しかしながら、この後、フランスの政情は再び不安定となり、1870年普仏戦争(プロイセン=フランス戦争の敗北によりナポレオン三世は失脚。

政治家、歴史家であるルイ•アドルフ•ティエールによる第三共和制が樹立され、それは1940年にナチス•ドイツのフランス侵攻まで存続した。

この普仏戦争後のティエール政権のプロイセンとの和平条約に反対し、1871年3月18日から72日間、普通選挙によってパリに労働者の革命自治政府が成立するが、プロイセンの支援を得た政府軍の「血の一週間」と呼ばれる虐殺により崩壊。

 

岩倉具視欧米使節団のパリ入りは、パリ・コミューン崩壊後一年半であり、パリ・コミューンの砲弾跡を修復中の凱旋門に見ている。使節団はパリ•コミューンを暴徒とみなし、それを徹底的に弾圧した大統領ルイ・アドルフ・テイエール称賛している。

ところで、この使節団に随行し、帰国後「米欧回覧実記」を刊行した久米邦武は、シャンゼリゼから凱旋門の直線的な景観に感動し、パレ•ロワイヤルやアーケード街の賑わい、そしてガス灯が醸し出す夜の情景について記している。またパリの特徴としてカフェを取り上げ、人生の愉悦に親しむパリ市民に驚嘆する。

パリに魅了されたのは、どうやら新島だけではないようですね。

 

19世紀後半にパリを中心に台頭した印象主義の画家たちの作品は一般市民やブルジョアジーをモデルに彼らの生活を対象にしたものが多く、新島襄を始め岩倉使節団の訪れた当時のヨーロッパの風景、風俗、文化を知る手がかりとなります。シカゴ美術館は多くの印象派のコレクションを所蔵していますが、その中から1870年代後半〜1880年代前半の絵画を選んでみました。(Manet, Gare Saint-Lazare と Renor, Bal du moulin de la Galetteは除く。)

想像するに、新島は、フランス北部ノーマンディーから列車でパリのサン•ラザール駅に到着し、パリの街を観光するーーー途中、この絵画に登場するような人物たちとすれ違い、挨拶や微笑みを交わしながら、広く美しいシャンゼリゼ通りを散策。そしてセーヌ川沿いのカフェで仲間と寛ぐ情景を眺め、モンパルナスでのダンスパーティの狂騒に驚く。

アーモストやボストンの厳格なピューリタン社会とは違った自由で解放的なパリの雰囲気に心身ともに癒された新島の姿が思い浮かびます。

そして雨の日にも。。。。

Claude Monet
French, 1840-1926
 Arrival of the Normandy Train, Gare Saint-Lazare, 1877
The Art Institute of Chicago

 

Édouard Manet
French, 1832-1883
Gare Saint-Lazare
1873
National Gallery of Art, Washington, D. C.

Édouard Manet
Woman Reading, 1879/80
The Art Institute of Chicago

Pierre-Auguste Renoir
Two Sisters (On the Terrace), 1881
The Art Institute of Chicago

Pierre-Auguste Renoir
French, 1841-1919
Lunch at the Restaurant Fournaise (The Rowers’ Lunch), 1875, The Art Institute of Chicago

Pierre-Auguste Renoir
Bal du moulin de la Galette
1876
Musée d’Orsay, Paris

Gustave Caillebotte
1848-1894
Paris Street; Rainy Day,
1877
The Art Institute