校祖新島㐮の足跡を訪ねて 

アーモスト ボストン紀行 

May 8 & 9, 2010

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はじめに

 1864年6月14日、若き新島襄は、函館に停泊するアメリカ商船、ベルリン号へ乗り込み国禁を犯して脱国。上海でワイルド・ローヴァー号へ乗り換えて、長い航海の末、翌年7月、ボストンへ到着−−−この校祖新島襄先生のゆかりの地、アーモストとボストンを訪ねて、同志社設立の精神を肌で感じることがこの私達の旅の目的でした。

 

ロローグ

5月8日(土)、午前8時25分アメリカン航空1718便にてオヘア空港より出発。早朝にも拘らず、空港内には人が溢れ、セキュリティ∙ラインは長蛇の列、然し全員、所定の集合時間までに顔を合わす。幸先のいい旅立ちである。

約2時間の飛行の後、機体は定刻通り11時30分にボストン∙ローガン国際空港へ到着。小雨降りしきる中を、AVISでレンタカー、クライスラー∙セダンに一同乗り込み、I90を西へと向かう。次第に雨脚が強くなり、時折フロントガラスにバシャ、バシャと降りかかるが、今村幹事は動じることもなく、始終沈着冷静に運転を続行。リーダーとして頼もしい限りである。

 

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 第一章 アーモストへ

 約2時間のドライブの後、市道沿いのパブ風レストランで昼食。店内は昼下がりのランチとお喋りを楽しむ老若男女でごった返しており、恐らく此処が唯一の社交場であろうと思われ、そのローカルライフの雰囲気に浸る。

此所で私は、ニューイングランド名物のロブスターロールを注文。パンからはみ出しそうなロブスターに『こんなに食べきれない〜』と嬉しい悲鳴を上げながら、そのモッチリとした食感に満足。若いウェイトレスの明るい応対に一同快くチップを弾んで、およそ40分後に其処を退出。

人口約35,000人のアーモストは農業を主産業とし、3つの大學を擁する大学町として小さいながらもアカデミックな雰囲気が漂っている、勉学には最適の所と思われる。

その町の中腹にアーモスト大学が位置する。設立1821年、学生数約1700人、全米有数の「リベラル・アーツ・カレッジ」としてその名も高い。キャンパス内に車を止め、一同、ジョンソン∙チャペルに向かって歩いていくと、兼ねてよりアポイントメントを取っていたサムエル∙モース教授(美学∙美学史及び東洋語学∙文化学科)が、私達を見ると温かい微笑で迎えてくれた。

氏の手引きにより、チャペルの中へ入ると、そこには真っ白い壁を背景に同じく白くペイントされた椅子がお行儀よく並び、そして床には赤いカーペットが敷かれていた。それは清潔で可愛らしく、ウェディング∙セレモニーにぴったりの雰囲気がする。正面に眼を転じると右側に、校祖新島襄先生の肖像画が掛かっていた。先生のお顔は私達が見慣れている壮年期のそれではなく、晩年期の少しお疲れを感じさせるものだった。ちなみにこの肖像画について、同志社タイムス(平成15年)より引用。

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アーモスト大学の1870年クラスが卒業後30年を記念して制作し、アーモスト大学に寄贈したもの。
当初は図書館に掛けられたが、まもなくジョンソン・チャペルに移された。制作は1901年、今回一世紀振りにアーモスト大学のご好意により日本で初公開されることとなった(1)

これまでこの肖像画に関しては「制作者は不明」とされることが多かったが、アーモスト大学アーカイヴスの学芸員(D.ダリアンゾー)の調査により、A.E.スミス(A.E. Smith 1863 – 1956)と判明。
新島の写真をもとに描かれたが、当時イエール大学に留学していた牧野虎次(のちに同志社総長)が資料提供をした。最終的にはA.S.ハーディ(A.ハーディの三男)が編集した新島伝に掲載されていたものがベースになった。DSCF7257 (2)

卒業30年(1900年)を記念して、新島のクラスメートがかってのクラスメートの中からひとり選んで肖像画を作成することを決め、スミスに制作を依頼した。
スミスはボストン美術館ならびにパリのジュリアン・アカデミーでG.R.ブーランジュ(Gustave Boulanger, 1824 – 1888)やJ.J.ルフェーブル(Jules Joseph Lefevre, 1836 – 1911)などに師事して美術を学んだボストンの肖像画家である。

なお、同肖像画は第二次世界大戦中も降ろされることなく、ジョンソン・チャペルの正面の「honored place」に掛けられてきた。

現在この肖像画のレプリカが栄光館∙ファウラーチャペルの正面右に掲げられているそうです。

またジョンソン・チャペルの左側には第30代大統領カルバン=クーリッジの肖像画が掲げられていました(卒業生でただ一人アメリカ大統領になる。)これについて後日談があります。巻末をご参照下さい。

私達はこの後、ジョンソン∙チャペルより南方にある『友志園』を訪ねる。ここは新島先生のアーモスト大學入学後135年を記念して2002年に開園されたもので、濃いピンク色のつつじが雨あがりの水滴を帯びて、一際美しかった。

同志社創立者新島襄は、ボストン到着後、ワイルド∙ローヴァー号の船主A.ハーディ夫妻の厚い援助を受け、フィリプス∙アカデミーで勉学し、2年後の1867年にアーモスト大学に入学して3年間此処を学び舎とし理学士の学位を得た。小高い丘から眺めるニューイングランドの山々の緑は麗しく、彼も此処に立ち、時には望郷の念に駆られたのではないか。それにしても何と遠い地へ来たものだ、と思う。

アーモスト大学を出て、私達は詩人エミリィー∙ディキンソン邸やカレッジ∙グッズを扱っている文具店を覗いた後、移動遊園地で賑わう町を去り、再びボストンへと東方する。

2時間余のアーモスト訪問だったけれど、短いながらも、校祖新島先生の足跡を辿ることで、彼の志の息吹きに触れることが出来たのは、母校同志社への愛と誇りを喚起する素晴らしい機会となった。

 

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 第二章 ボストンへ

およそ2時間余、雨もすっかり上がり、順調に車は滑らかなハイウェイを進む。
途中、お疲れの小松相談役はウトウトと夢の中へ。後部座席の女性陣は、勝手にお喋り談義。黙々とハンドルを握っている今村幹事、本当にご苦労様です。

午後7時過ぎ、宿泊先のホテル、Renaissance Boston Waterfront Hotelに着く。
ボストン∙ハーバーに面したこの真新しいホテルの洗練されたモダンなインテリア∙デザインに感嘆の声を上げる。ゲストルームも小奇麗で快適。各々の部屋で1時間余の小休憩を取った後、タクシーでレストラン、『B&G Oysters』へと向かう。約10数分後、当地に着く。

ボストンでは、古い赤レンガの建物の一階や地下を改造したレストランやショップが多く見られるけれど、此の『B&G Oysters』もその類のひとつである。地下にあるその店内には、オープンキッチンをぐるりと囲んで、ピカピカの人造大理石のスタンド席があり、壁に沿ってテーブル席が10数個。30人から40人収容のこじんまりした空間は、ヤングキャリア達やベビーブーマー達の格好の社交場のようである。30分程待って壁側のテーブルに案内されるや一同、暗がりの中をメニューに首を突っ込むようにして、品書きを読み始めるーーー全員、空腹である。満場一致で、まずオイスターを注文する。

生牡蠣はRのつく月に食すべきではないかという意見もあったが、ボストンは海が近く新鮮だからと大丈夫という勇声にかき消される。通の静子女史が選りすぐった美味しいワインをご馳走になりながら、テーブルに所狭しと並べられたサラダ、パスタ、リゾット等に舌鼓を打つ。ワイングラスを片手に、話題は尽きなく会話は続く−−−

明日は早起きしてボストン観光!という今村幹事の確個たる声に背を押されるようにして、11時過ぎに其処を退出。

 

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 第3章 フリーダム∙トレイル

フリーダム∙トレイルはボストン植民地時代とアメリカ独立戦争の史跡l6箇所を徒歩で巡るもので、距離にして4km、約3時間を所要する。

早朝7時過ぎ、前夜の酔いも醒めぬまま、朦朧としてロビーに下り、レストランへ向かうと、今村幹事と小松相談役は既に朝食を口に運びながら談笑していた。私がテーブルに着くや、お二人はセカンド∙ラウンドのビュッフェへ向かう。その健啖ぶりに驚嘆する。

お部屋でゆっくり休養します、という静子女史をホテルに残し、8時30分過ぎ、タクシーでフリーダム∙トレイルの出発点ボストン∙コモンへ向かう。此処から赤いペイント又は赤レンガのラインに従って歩いていく。

DSCF7279気温は18℃、でも風が強く体感温度は10℃程。セーターをもう一枚着込みたい天候である。

史跡巡りの途中、イタリアン街と覚しき一画に出会った。窓越しに白いリネンが掛けられたテーブルが5、6個、肩を寄せ合うように置かれているのが見える。同じような小さなレストランテが軒を並べて続く。この界隈にはヨーロッパの雰囲気があり、それはボストンの町の印象と重なる。

時計台が11時を打つ頃、トレイルの後半部USS Constitution & Charlestown Navy Yard へと向かう。

USS Constitution は1797年に進水した世界最古の軍艦である。それは校祖新島襄先生が乗船した『ワイルド∙ローヴァー号』を想起させる。先生は一年の長き航海の間、水夫として甲板掃除や雑役をやり、聖書を読みながらアメリカ合衆国への憧憬を深めていったのではないか。

そこからトレイルの最終地点、バンカー∙ヒルズ∙モニュメントへと向かう。
高さ221フィートのこのタワーは、アメリカ独立戦争(1775-83)の最初の主戦場であった。その入り口にあったサインに一同、眼を凝らす。

“Don’t fire until you see the whites of their eyes”(至近距離で確実に撃て、という意味か。。。)

正午になり、ホテルで静子女史と合流し、一同、空腹を満たすべく、車で、”Anthony’s Pier 4 Restaurant”へ向かう。レストランの入り口の壁には、有名人、著名人の写真が所狭しと並ぶ。 マリリン∙モンロー、エリザベス∙テイラー、ジョン∙F∙ケネディ大統領に混じって皇太子殿下浩宮様のお写真も。

この日は、母の日、とあって、店内は込み合い、花束を持った女性や男性の姿が眼につく。

旅の最後の饗宴は、ロブスターがいい、と全員一致。その他、新鮮なお刺身も食べたい、ボストン名物のクラムチャウダーも、と一同の貪欲な食欲は止まるところがない。ボストン港の青い海を眺めながら談笑していると、真っ赤な甲羅のロブスターがテーブルへ運ばれてくる。皆、黙々と甲羅から身を取り外して食す。至福の時ではあるまいか−−−−

約2時間後、ロブスターで食欲を満たし、旅の目的を成就した一同は、空港へ向かうべく、クラUntitledイスラーセダンに乗り込む。途中、かの名声高きハーバード大學を一目見たいとチャールズ河に沿って車は進めども、逡巡する。

やがて広大なキャンパスが視界に入る。政界財界を始め各分野に有能な人材を送り出し、数々のノーベル賞受賞者を輩出してきたこの知の殿堂は、悠然かつ威風堂々した風格で、一同の賞賛を浴びた。

5月9日(日)、午後5時30分、アメリカン航空1339便にてボストンを後にし、約2時間後、無事オヘア空港に到着。

一泊二日という短いアーモストとボストンの探訪の旅を終え各々、家路へと向う。愉快な仲間たちとの旅は楽しい思い出を残してくれた。深謝。

この素晴らしい旅を企画し、フライトからホテル、レストラン、全ての予約を一手に引き受けて、更にレンタカーの運転の責務を担って下さいました今村さんに心よりお礼を申し上げます。本当にご苦労様でした。有意義な旅でした。

 

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 巻末 : 私たちが訪れたホテルとレストランのご案内

 

ロブスターロール: このニューイングランド名物をシカゴでも数カ所で味わうことができますが、私のお薦めは、ネイビーピアにあRIVA(http://www.rivanavypier.com/index.html) です。大きな窓から、ハーバーを眺めながら、ビールやワインを片手にシーフードに舌鼓を打ち、日がな過ごす—なんとも贅沢な時間ですね。

Renaissance Boston Waterfront Hotel    (606 Congress Street Boston, MA 02210 )
phone: 617. 338. 4111

http://renaissance-hotels.marriott.com/renaissance-boston-waterfront-hotel

Seaport Districtにある眺望のよい近代的なホテルです。此の界隈は新しく開発され、ボストンの伝統的な落ち着いた雰囲気とはまた違ったアップテンポの都市の表情とリズムを感じます。

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B & G Oysters (550 Tremont Street, Boston, MA 02116)
Phone: 617.423.0550

http://bandgoysters.com/

断然お薦めです!!!

サイトを見てるだけで、また行きたくなりました! オイスター、リゾット、パスタ、もう食べることが楽しくなります。カジュアルなお店の雰囲気が快適で、時間のたつのを忘れてしまいます。ワインセレクションも豊富です。スペースが限られているので、ご予約をお勧めします。

 

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Anthony’s Pier 4 Restaurant (140 Northern Avenue, Boston, MA 02210-1902)
Phone:  617.482.6262

http://www.pier4.com/anthonys.php

ボストンハーバーを眺めながら、ロブスターを存分に召し上がって下さい!

有名人著名人に限らず、ボストン市民に愛されているイチオシのシーフードレストランです。勿論観光客必見のレストランです。もう文句なしに楽しめます。混雑が予想されますので、ご予約を必ずお忘れなく。

 

巻末

*(1)アーモスト大学のジョンソン・チャペルの新島先生の肖像画は、2002年ホームカミングデー 特別展示 としてアーモスト大学のご好意で初めて国外転出され、今出川キャンパス理化学館に掲げられておりました。其の時、H.S. テイラー船長一族写真、ワイルドローヴァー号絵画も同時に提示。ご参考までにその2点をご紹介します。

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帆船「ワイルド・ローヴァー号」のH.S.テイラー船長と47人の親族の顔写真を1枚に編集した写真で、チャタム歴史協会所蔵。テイラー船長は「ジョー (Joe)」の名付け親。新島を弟のようにかわいがり4度も実家に招いた。この組写真はテイラーの両親の金婚式のお祝いとして作成されたもので、新島は 「船長が両親にプレゼントした写真は大変きれいな集合写真で、すべての親族が47人写っています。(中略)私が家族の一員に数えられています」と述べてい る。

 

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上の集合写真の右上の写真を拡大したもの。この真ん中上の写真が新島。

 

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元治元年(1864)3月新島襄は国禁を犯してまで、不退転の決意で函館を出港。上海でベルリン号からワイルド・ローヴァー号に乗り継ぎ一路北米に向かっ た。テイラー船長は、船主で貿易会社の経営者であったアルフュース・ハーディーを新島に紹介した。その後ハーディーは新島の米国滞在中の10年間スポン サーになっていた。
ワイルド・ローヴァー号のこの絵画は同志社創立90周年の時に借り出して依頼、2度目の来日となる。

上記写真および説明文は「The Doshisha Times」の平成15年1月15日第574号第8面に掲載のもの、および同志社大学主催、アーモスト大学チャタム歴史協会協力による、同志社大学ホームカミングデー2002「特別展示」のパンフレットに掲載の文章より拝借。

尚、新島襄先生の肖像画にまつわる逸話、並びにテイラー一族写真、ワイルド ローヴァー号に関する上記の内容は、同志社東京校友会旧ホームページ 新島襄エピソードプラスワン からシェアーさせて頂きました。此の紙面にて貴校友会に御礼を申し上げます。

*ジョンソン・チャペルの肖像画についての後日談

村田晃嗣学長が2014年6月にアーモスト大学を訪問された時には『肖像画の位置がシャッフルされ、クーリッジ大統領の肖像画は正面左側からはずされていました。しかし、新島の肖像は、変わらず元の位置にあった』そうです。

この件について村田学長がアーモスト大学のマーティン学長にどのような基準で肖像画を配置しているのかお尋ねになったところ、『それは、著名であることや、資産家であることなどではなく、「アーモスト大学というコミュニティーに知的精神的にどれだけインパクトをあたえたか」であるというのです。そして、最も大きなインパクトを与えた卒業生が新島襄であった。だからただ一人、肖像画の位置を変えなかったのだ。』と。
(以上、新島襄海外渡航150周年記念講演会での講演より抜粋。)

*余談

新島㐮先生が函館で乗船したベルリン号の船長セイヴォリーは密航者を乗せたかでで解雇されてしまったのですが、一年あまりの後にワイルドローヴァー号がボストン港へ到着した時、新島先生に会いにきてくれて、お互いの再会を喜び合ったそうです。

あとがき

新島襄はlifelettersofjos00hardiala_0008何故、脱国したか?
発覚すれば死罪という身の危険を犯してまで、何がこの21才の青年を突き動かしたのか?

其の鍵となるのが、ボストンに入港後、新島がハーディ夫妻に提出した『脱国の理由書』 (“Statement of Reasons For Leaving Japan”) です。
これは、ハーディ夫妻の三男にあたるアーサー•シャバーン•ハーディー著 ”Life and Letters of Joseph Hardy Neesima” (1891年)の第一章に記載されています。現在この著書はインターネットで読む事ができます。また翻訳 『現代語で読む新島襄』(『現代語で読む新島襄』 編集委員会編 丸善)も刊行されています。

ところで原本の見返しに新島の写真があります。アーモスト大学ジョンソン•チャペルの肖像画は此れを参考にして描かれたものと言われています。

新島は、ボストン港で3ヶ月、身元引き取り人が確定しないまま船上生活を余儀なくされました。当時アメリカは南北戦争(1861−1865)後、急激な物価上昇に市民の生活は逼迫していたようで、海の者とも山の者とも分からない一介の東洋人の後見人になる人物を見つけるのは容易な事ではなかったことは想像に難くありません。その間、新島は他の船員と寝食を共にしていたのですが、彼らから、『誰もお前の面倒を見てくれる者などいない、もう一度海に戻るしかないな、』などと揶揄されていたようです。後見人が見つからないまま悶々と過ごす苦しい胸中を吐露する部分には胸を打たれます。

漸くして、ワイルドローヴァー号船長テイラーの強い推薦によって、船主ハーディー夫妻は此の青年に関心を寄せ面接をしますが、船上では通用した新島の英語力も夫妻に自分の密航の動機や目的を伝えるには十分ではありませんでした。しかし、Broken Englishであっても、身振り手振りで真摯に訴える新島の態度に夫妻は感銘し、レポートというワン•モア•チャンスを与えてくれたのです。

新島が拙いながらも熱意のこもった筆致で語っているアメリカ密航の動機は次のふたつに要約することができます。ひとつは、アメリカの国体を形成している自由と民主主義。そして他方は、キリスト教信仰:

アメリカの自由と民主主義

新島は16才の時、友人より借り受けたアメリカ合衆国の地図書『連邦志略』によって、大統領選挙、授業料無料の公立学校や救貧院、少年更生施設などを知って、脳みそが頭からとろけ出しそうになる程感嘆したそうです。そして、日本国の将軍もアメリカの大統領のようであればと希い、『ああ、日本の将軍よ、何故あなたはわれわれを犬や豚のように抑圧するのか。我々は日本の人民だ。かりにわれわれを支配するのならば、あなたはわれわれを我が子のように愛さなくてはならない。』と、封建的な日本の体制への憤懣やるかたない気持ちを述べています。

キリスト教への信仰

そして、またある日、友人の書斎で聖書を抜粋した小冊子に出会ったことが、新島をキリスト教信仰へと導いたのです。それは、アメリカ人の宣教師が漢文で書いたものですが、新島は友人から借出して夜自宅で密かに此の国禁の書、聖書を読み深い感動と衝撃を受けたのです。

そして、英語の聖書をもっと読みたいという思いを強く抱くようになり、函館に行ってイギリス人かアメリカ人の聖書の教師を捜そうと決意したのでした。修行する為に函館へ赴くという名目で藩に届けを出し、快風丸に乗り込んで当地に渡ったものの、肝心の塾長武田斐三郎は江戸へ戻った後でした。しかし新島は一転して、国外脱出を考えたのでした。この辺り、猪突猛進に自分の目的を果たさんとする若者の血気盛んな様子が浮かび上がって来ますが、聖書から学んだ創造主である神の導きという信仰心にも支えられていたのではないでしょうか。

この新島のアメリカ合衆国への熱い憧憬と篤い信仰心、そして迸るような向学心にハーディー夫妻はいたく心を打たれ、以後10年間、養父母として学費、生活費はもとより精神的な援助を惜しみなく与えました。新島は此の夫妻を深く敬愛し、ハーディー氏の死去の知らせを受け取った時、心に大きな打撃を受け、持病の心臓病が悪化していったようです。

 

さてここで、話題を変えて、ちょっと横道に。

新島は、この『脱国の理由書』の中で、江戸湾で見たオランダ軍艦に衝撃を受けた時の思いをこんな風に語っています: 『此の船を眺めていると、ある思いが頭にひらめいた。私達は海軍を作らなくてはならぬ、との思いである。なぜなら、我が国は周囲を海で囲まれており、もし外国から攻撃を受ければ、海上で戦わなくてはならないからだ。«中略» 日本人は外国人と貿易をする方法を知らないから、私達は海外に出かけて貿易の仕方を覚え、外国に関する知識を学ばなくてはならない、との思いである』。

海軍と貿易ーーあの坂本龍馬の発想と共通するものがあります。龍馬は1865年、日本で初の総合商社、亀山社中を創立し、其れは1867年、海援隊という私設海軍兼貿易会社に発展しました。不運にも龍馬は其の年に京都河原町通の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されてしまいます。もしも、坂本龍馬が生き延びていれば、京都のどこかで、二人の共通の師、勝海舟を挟んでビッグな会談が行われていたかもしれませんね。そして、きっと龍馬は、よしゃ! と快く新島に大学設立の寄付金を渡したかもしれません。
新島襄が、閉塞した日本の封建体制を嫌い自由を求めて函館から密出国する姿を思い浮かべる度に私は、同じく海外雄飛を夢みながらも志半ばで倒れた坂本龍馬の無念さに思いを馳せるのです…

2014年11月

参考資料:

『脱国の理由書』を読む ーーなぜハーディーは心を動かされたのか?ーー
同志社大学神学部准教授 村山 盛葦
2010年 同志社スピリット ウィーク 講演 記録